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第1章 第1節「ぽなしのノーラ」
 空が紫から朱色へとゆっくりと染まりはじめる頃、ノーラは村の外れにある小高い丘の上に立っていた。薄い朝霧が彼の足元にまとわりつく中、彼の小さな耳が風に揺れる。柔らかな朝の光が、その背中を静かに照らしていた。

 猫を起源として進化したこの世界では、しっぽがすべてを物語る。魔力とは、自然界のいたるところに存在するとされる微細な粒子——魔遊(まゆ)を身体に取り込んで集めることで生まれる力のことだ。しっぽはその魔遊を集め、効率的に魔力へと変換するための器官であり、魔力の源として、しっぽは生まれつき持つ者の才能と密接に結びついている。長ければ魔法の持続時間が延び、太ければ瞬発力が増し、複数のしっぽを持つ猫は一度に複数の魔法を扱うことができる。しっぽを持つことは誇りであり、力そのものだった。しかし、ノーラにはそのどれもがなかった。彼は「ぽなし」——つまり、生まれつきしっぽがない猫だった。

 ぽなしが忌み嫌われ、凄惨な淘汰があったのは遥か昔のこと。今では古い言い伝えとして語り継がれているだけだった。村の人々は優しく、ノーラを温かく見守ってくれていた。それでも彼がこの丘に立つ理由は、ただひとつ。誰にも見られずに練習するためだ。失敗したときに、周囲の優しい人たちが心配そうに見てくるその視線が、彼にとっては耐えがたいものだった。それでもノーラは、誰にも負けない努力を重ねていた。彼の心には、はっきりとした目標があった——冒険に出て、行方不明となった両親を探し出すこと。幼い頃から彼の胸に深く刻まれているその願いが、何度失敗しても立ち上がる力を与えていた。

 「今日こそ……」

 小さく呟きながら、彼は両手を前にかざした。手のひらには一本の野ジャラシーが握られている。ありふれた魔法の媒介で、これがなければ最も簡単な呪文すら発動することはできない。ノーラは深く息を吸い、目を閉じ、イメージを描く。

 ——小さな火の玉を、指先に宿すだけ。

 彼は集中した。風の音、葉のざわめき、遠くの村の朝の喧騒——全てを遮断するように意識を内側へと向けた。心臓の鼓動すらも静かに聞こえるほどの集中状態に入る。

「はぁっ!」

 気合とともに、魔力を解放する。しかし、指先がわずかに温かくなっただけで、それ以上の反応はなかった。炎どころか、光すら生まれなかった。

「……やっぱり、ダメか」

 肩を落とし、ノーラは地面に膝をついた。冷たい朝露が彼の膝を濡らす。彼の胸に広がるのは、またしても失敗したという痛烈な現実感だった。それでも、彼は自分に言い聞かせる。

「まだ、終わりじゃない……」

 彼の手にある野ジャラシーは、すでに何度も使い古され、所々が欠けていた。けれど、彼にとってそれはただの道具ではない。希望の象徴だった。

「ケロケロ、またダメだったケロか?」

 背後から響くおどけた声が、沈黙を破った。振り返ると、浮遊するがま口カエルが彼を見下ろしていた。その緑色の体は朝露に濡れ、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。

「うん……。もう何度やっても成功しない。もしかして、やっぱり僕には才能がないのかもしれない」

「ケロ、それは違うケロよ。君は、しっぽがないからこそ、特別な力を持っているケロ」

 その言葉に、ノーラの胸の中に小さな希望の光が灯る。けれど、それでも失敗の重さは消えなかった。彼は何度も同じ言葉を聞いてきたが、結果はいつも同じだった。

「……それでも、諦めたくはない」

 ノーラはゆっくりと立ち上がる。朝の光が彼の背を押すように温かく照らしていた。草原の匂いが彼の鼻をくすぐり、冷たい空気が肺を満たす。

「しののめさんなら、何かアドバイスをくれるかも……」

 彼の頭に浮かんだのは、師であるしののめさんの姿だった。森の奥深くにひっそりと暮らすしののめさんは、ノーラにとってただの魔法の先生ではなかった。彼の存在は、ぽなしのノーラにとって唯一の希望の光でもあった。どれほど失敗を繰り返しても、しののめさんは彼を見放さなかった。だが、しののめさんはお出かけ好きで、村を離れて薬草を探したり、魔法の研究のために長期間留守にすることが多かった。ノーラが彼に会えるのは、ほんの時折、運が良いときだけだった。

 ノーラは丘を下り始めた。耳を澄ますと、遠くの草木が揺れる微かな音、地中を走る小さな虫の動きまでがはっきりと聞こえてくる。その聴覚は、行方不明となった父から受け継いだものだった。父は村で名医として知られ、患者のかすかな呼吸や心音の変化まで聞き取ることができたという。

 そして、母から譲り受けた脚力もまた、彼の体に息づいていた。母はかつて**音無(おんな)**と呼ばれる体術の使い手だった。その技は、息を止めた瞬間に発動する特別な力を秘めており、彼女が全力を出せば、弓矢すらも凌駕する俊敏さを誇ったと言われている。足を踏み出すたび、草原を切り裂くように軽やかに進むその動きは、しなやかで速く、まるで母の影が彼の中に宿っているかのようだった。幼いころ、母が彼を抱きしめながら教えてくれた冒険譚の数々を思い出すたび、ノーラの胸は熱くなった。

 彼はその力を信じていた。今は小さな一歩に過ぎないかもしれない——だが、必ずや両親の足跡を見つけるために役立つと、彼は信じていた。

 ——この小さな灯火が、やがて大きな炎となることを、彼はまだ知らなかった。
第1章 第2節「しののめさん」
 村全体が視界に広がる。朝日が湖面を照らし、村のほぼ中央に位置する大きな湖がきらめいていた。丘を走っていたノーラは足を止め、その景色を眺める。幼いころ、両親と何度もあの湖へ遊びに来たことを思い出す。湖畔には小さな桟橋があり、そこで釣りをしたり、水遊びをしたり——。

 ふと、胸の奥がちくりと痛んだ。

 両親が行方不明になってから、あの湖へはほとんど行っていない。どれだけ眺めても、過去の思い出の中の両親の姿は今の景色にはない。

 ノーラは小さく息を吐き、視線を前へ向ける。

 「行こう、がま口カエル。」

 そう言って、ノーラは足を踏み出した。森の奥へと続く道へ向かって——。

 道を進むにつれて、村の景色は少しずつ遠ざかっていく。振り返ると、湖のきらめきが木々の間にわずかに見えるだけになっていた。やがて、木々の密度が増し、空を覆う葉が太陽の光を遮り始める。鳥のさえずりが響き、湿った土の匂いが漂う。村の喧騒はすっかり消え、代わりに森の静寂が広がっていた。

 陽光が木々の隙間から差し込み、霧がかった空気の中に金色の光の粒が舞う。森の奥には、ぽつんと一軒の小屋が佇んでいた。木材と石を組み合わせたその小屋は、まるで自然に溶け込むように静かにそこにあった。

 ノーラは足を止め、ゆっくりと息を吸う。

「……いるかな?」

 しののめさんは、しばしば留守にする。彼の正体は不明で、村の誰もが詳しくは知らない存在だった。薬草を探しに森の奥へ行ったり、どこか遠くへ出かけてしまったりすることが多い。だが今日は運がいいのか、小屋の中からかすかな物音が聞こえてきた。

 ノーラは扉を軽くノックする。

「しののめさん、いる?」

がま口カエルはノーラの肩に乗りながら、小さく咳払いをした。

「ケロ……ノーラの悩み、ちゃんとしののめさんに伝えてあげるケロ。」

 しばらくの沈黙の後、扉がきしむように開いた。薄暗い室内から現れたのはしののめさんだった。

「のめ♪」

 その言葉を合図に、がま口カエルがノーラの肩の上でぴょんと跳ねた。

 ノーラはほっと息をついたが、すぐに悩みを切り出すのはやめた。しののめさんに会えるのは久しぶりだったし、まずは旅の話を聞きたかった。

「のめ♪」

 しののめさんが短く呟くと、がま口カエルが意気揚々とノーラへ向き直った。

「ほうほう、しののめさんはこう言ってるケロ!『今回の旅はとっても楽しくて、でもちょっと危なかったのめ♪』だってケロ。」

「危なかった?」

「そうケロ。途中で大きな黒毛獣に遭遇したケロ。でも、しののめさんはうまくその気をそらして、何とかやり過ごしたケロよ!」

 ノーラは驚いた。黒毛獣といえば、村の大人たちが昔話として語る危険な生き物の一種だ。

「しののめさん、一体どうやって逃げたの?」

「のめ♪」

「ええっと……『秘密の技を使ったのめ♪』だってケロ!」

 ノーラは思わず笑ってしまった。しののめさんはいつも何かしらの“秘密”を持っている。でも、その秘密を知ろうとすると、決して教えてくれないのだ。

「まあまあ、それはさておき、旅の途中で見つけた珍しい薬草もあるケロ。すごく貴重らしいケロよ!」

「のめ♪」

「ふむふむ、どうやら『まだ研究が必要だから、後で試すのめ♪』って言ってるケロ。」

 ノーラはしののめさんの話を聞いているうちに、少しずつ心が和らいでいくのを感じた。旅先での話を聞くのは楽しかったし、しののめさんが無事に帰ってきたことが何より嬉しかった。

 しかし、ノーラの心の奥にはまだ言いたいことが残っていた——魔法の悩みについてだった。

「よかった。実は……相談があって」

 しののめさんは黙ったままノーラを見つめ、がま口カエルが代わりに口を開く。

「ノーラは魔法のことで困っているケロね?」

「……うん。頑張ってるんだけど、全然うまくいかなくて。」

 ノーラは両手を握りしめる。

「火の玉すらまともに出せないんだ。どうしても、魔力を感じることができない。だって僕は……」

 しののめさんは無言のままゆっくりと近づき、ノーラの頭にそっと手を当てた。

「のめ♪」

「しののめさんはこう言ってるケロ。『しっぽがないことが理由ではない』ケロ。」

「じゃあ、何がダメなんだろう?」

「それはね、君がまだ“魔力の流れ”を理解していないからケロ。」

 がま口カエルは膨らんだ口をぽんっと鳴らしながら説明する。

「魔力っていうのはね、ただ力を込めれば出るものじゃないケロ。自然の中に漂う“魔遊(まゆ)”をうまく集めて、自分の中で流れを作ることが大事ケロよ。」

「魔遊の流れ……。」

 ノーラは手を見つめる。何度も魔法を試してきたが、そんな感覚を得たことは一度もなかった。

 しののめさんは黙ったまま、小屋の奥から小さな花の絵が描かれた古びた本を取り出した。

「のめ♪」

「ほうほう……しののめさんが言うには、まずは魔法を直接使おうとする前に、“自然と一体化する感覚”を学ぶべきケロね。」

「……どうやって?」

「“朝花”を摘んでくるケロ。」

「朝花?」

「そうケロ。太陽が昇る一瞬の間だけ花開き、開くと同時に花が落ちて輝きを失ってしまう、儚い花ケロよ。花が開き始めた瞬間であれば、まだ輝いたまま摘むことができるケロが、その輝きも決して長くはないケロ。だから摘んだらすぐにしののめさんに届けないとダメケロよ。しののめさんが薬草に使うんだけど、摘むには魔遊(まゆ)の存在を感じる必要があるケロ。」

 ノーラは少し考え込む。朝花なんて聞いたこともない。

「でも、僕がそれを摘めるのかな……?」

「やってみるしかないケロ!」

 がま口カエルが勢いよく跳ねた。

「それにね、君の母さんは『音無(おんな)』っていう体術を使っていたって、村の猫たちが話してたケロ。息を止めれば弓矢すらも追い抜くほどの速さだったって話ケロよ。その力を受け継いでるなら、きっとできるケロ。」

 ノーラは息をのむ。両親の話を聞くと、どうしても胸が熱くなる。

「……わかった。やってみる。」

 ノーラの目に決意の光が宿る。しののめさんはわずかに微笑み、静かに頷いた。
第1章 第3節「ブルームア」
 朝花のこと魔法のことを考えながら、ノーラはブルームアの村へ戻ってきた。

 森と丘に囲まれたこの村は、花と果物に恵まれた豊かな土地だ。村の中央には、大きな湖が輝き、周囲には果樹園や色とりどりの花畑が広がっている。村には約1,000名ほどの猫たちが暮らし、狩りや農業、交易で生計を立てている。

 この村は、昔から狩人たちが森へ入る前に立ち寄る宿場として栄えてきたが、今では花や果物の産地としての方が有名になっていた。

 ノーラは、村の一角にある「またたびオソノ」へと足を向けた。

 「またたびオソノ」は、村の酒屋であり、ノーラの居候先でもある。店の看板には、鮮やかなまたたびの枝が描かれており、入り口をくぐると、ふわりと甘い酒の香りが漂ってくる。

「おかえり、ノーラ。」

 カウンターの奥で酒瓶を整理していたのは、店主のオソノだった。オソノはふくよかな猫で、年齢は不詳だが、村で最も古くからいる猫の一人と言われている。

 約10年前、ノーラの両親が行方不明になったあと、オソノは「うちで暮らしな。ちょうど店番が欲しかったんだよ」と強引な優しさでノーラを引き取った。それ以来、ノーラはオソノとともに暮らし、彼女の大らかさと優しさに深く感謝していた。

 オソノは村でも珍しい長い2本しっぽの持ち主だったが、本人はその力をひけらかすことなく、のんびりとした性格で酒造りに情熱を注いでいた。しっぽの数が魔力に影響すると言われるが、オソノは魔法を使わずに生活していた。

「おはよう、オソノさん。今朝は森へ行ってたんだ。」

「しののめさんのところかい? お前さん、すっかり森の住猫みたいになっちまったねぇ。」

 ノーラは苦笑しながらカウンターに腰を下ろした。オソノは「マタタビ園の様子を見に行ってくるよ」と言い残し、店を出ていこうとしたが、その前にノーラへ視線を向けた。

「店番頼んだよ。いっぱい稼いでくれたら、ご褒美に私のしっぽを一本分けてあげようかね?」

「そんな魔法なんてないくせにー!」

 ノーラは笑いながら肩をすくめた。

 しばらくして、店の出入り口から姿を現したのは、ノーラと同い年のチャマー・ボンスネーだった。

 チャマーは、入り口の柱に寄りかかりながら、爪とぎをしつつノーラを見下ろした。

「ノーラ、やっと帰ってきたな!探してたんだぞッ!」

 と言ったチャマーの肩を大きな手で押す猫がいた。

「通れないじゃないか、爪とぎもいいけど、はやく入れよ。ジャマー・ボン。」

 のっそりと現れたのはガッソン。どっしりとした風格を持っていた彼は力自慢の大きな猫。

「チャマーだよ!」

「いやいや、ジャマーだね。なぁ、マリーリン?」

 チャマーが振り向くと、優雅な足取りで歩いてきたのは、マリーリン。人気者の彼女は、ふわふわの毛並みと気品ある仕草で、いつも周囲を魅了している。

「ノーラはきっと朝から魔法の練習してたのよ。チャマーも怒らないで?」

「……ありがと、マリーリン。」

 ノーラは少し安堵しながら、皆の日常的なやりとりが楽しかった。

 チャマーが腕を組みながら言った。

「ノーラを探していたのは、今度の収穫祭の儀式のことを考えるためさ。」

「今年も果物と花が豊作だったそうよ。儀式の準備をどうするか、そろそろ話し合わないと。」

 マリーリンが微笑みながら続ける。

 ブルームアの収穫祭では、15歳になる猫たちが村の広場で儀式を行い、豊作を祝うのが伝統だった。今年はノーラたちがその役目を担う年だった。

「だから、4人で考えようってことだ。」

 ガッソンが力強く頷く。

「なるほど……そんな時期か。」

 ノーラは少し考え込んだ。森での修行に集中していて、収穫祭のことをすっかり忘れていた。

「せっかくだし、いい儀式にしよう。」

 4人はテーブルを囲み、それぞれの考えを話し合い始めた。

 話し合いが続き、気づけば店内に差し込む日差しが高くなっていた。

「そろそろ休憩しない?」

 マリーリンがそう提案し、皆が頷いた。

「じゃあ、何か飲み物でも持ってくるよ。」

 ノーラが立ち上がろうとしたその時、酒屋の扉が開いた。

 コンレーンの表情はどこか困っているようだった。

「オソノは……居ないようだね。ノーラ、ちょっといいかね?」

 入ってきたのは、村長のコンレーンだった。彼は高齢の猫で、長くブルームアの村をまとめてきた存在だ。

「収穫祭のことで相談があってね……」

「実はな、収穫祭で使う『マタタビ酒』の数が合わんのじゃ。収穫祭では、お供えのマタタビ酒は99樽としきたりで決まっておる。一週間前、ノーラ、お前も運搬を手伝ったじゃろ? そのとき確かに99樽あったことを確認したはずじゃ。」

「うん、ちゃんと数えたよ。」

「若い猫が99樽あると言っていたが、今朝になって数え直すと88樽しかなかった。見間違いだったのか、誰かが持ち出したのか……。」

「そんなはずない……一緒に数えたし、間違いようがないのに。」

 その言葉に、チャマー、ガッソン、マリーリンの三人は顔を見合わせた。

「ちょっと待って……もしお酒が足りないままだと……」

「まさか、俺たち……収穫祭でお酒が飲めないんじゃ?」

 ガッソンが不安そうに言う。

「そ、そんなの困る!15歳になった猫が初めてマタタビ酒を飲む決まりになっているのに!」

 チャマーが慌てて声を上げる。

「ねえノーラ、どうにかならないの?」

 マリーリンも心配そうにノーラを見つめる。

 ノーラは困ったように肩をすくめながら、コンレーンに視線を向けた。

 大事な供物が消えるなんて、一体どういうことだろう。

「念のため、オソノにも確認しておこうと思ってな。それと、追加で用意できるかも相談したいのじゃ。」

 オソノが作るマタタビ酒は、香りが豊かで味が深い。その品質の高さは村中に知れ渡っており、他の酒蔵のものと違って悪酔いも二日酔いもしないと評判だった。しかし、その製法は極めて複雑で、簡単に追加生産できるものではない。

「オソノさんのマタタビ酒って、作るのにすごく手間がかかるって聞いてる。」

 ノーラは考え込みながら言った。

「それに、お店に在庫は10樽ほどあるけど、それはよその村に出荷する分なんだ。」

「ふむ……それを収穫祭に回すことはできんかの?」

「うーん、それはオソノさんに聞かないと……。」
第1章 第4節「夜の倉庫」
 マタタビ園から帰ってきたオソノに、コンレーンが事の経緯を説明していた。

「マタタビ酒が足りない……?」

 オソノは驚きつつも、真剣な表情でコンレーンの話を聞いていた。

「なるほどねぇ……これは困ったことになったねぇ。」

 そんな中、コンレーンの指示で倉庫を調べていた若い猫の一人が、一つの品を見つけ、「またたびオソノ」に持ち込んだ。

「これは……?」

 それは、古ぼけた革製のブレスレットだった。裏面にはかすれた文字が刻まれている。

「…火は…あがらず。…地を……」

 ノーラが読み上げると、オソノがその続きを口にした。

「灯火は消え陽はあがらず。されど地を踏み歩を進め」

「知ってるの?」

「これはね、シルジ経典の一節だよ。信仰心の強い教徒がよく持っているものさ。」

 この言葉に、ノーラたちはさらに興味を持った。

「シルジ教徒なんて、この村で見たことあったかねぇ?」

 オソノはブレスレットをじっと見つめながら、首を傾げた。

「もしかして、マタタビ酒を持ち出した猫が落としていったのかね~?」

 念の為、村中を回って持ち主を探すことにし、ノーラ、ガッソン、チャマー、マリーリンの4人がその役目を買って出た。

 ————

 マタタビ酒の不足は依然として大きな問題となっていた。

 コンレーンは、店にある在庫10樽を融通できないかと出荷先の村へ使いを出していたが、返答は無情なものだった。

「あちらの村もお供えに使うらしく、融通はできないそうじゃ……。」

 村の猫たちの間に不安が広がる。オソノが急ぎ追加生産に取り掛かっていたが、できても1樽分にもなりそうにない。

「どうしよう、このままだと収穫祭が……。」

 村の猫たちは頭を抱え始めた。

 ノーラたちは村中を歩き回り、ブレスレットの持ち主を探していた。しかし、誰も心当たりがなかった。

「うーん……誰のものかわからないな。」

 チャマーがブレスレットをひっくり返しながら呟いた。

「シルジ教徒のものなら、旅の猫が落としていったのかもしれないね。」

 マリーリンがそう推測すると、ガッソンが腕を組んだ。

「旅猫がわざわざ倉庫に入るか?」

「村の誰のものでもないとなると、やはりマタタビ酒を持ち出した犯人が落とした可能性が高いな。」

 コンレーンはブレスレットを眺めながら、慎重に言った。

「もし犯人がこれを探して戻ってくるとしたら、倉庫を見張る価値はあるかもしれん。」

 そう言うと、若い猫たちに夜の見張りを命じた。

 ————

 **一夜目から三夜目**

 夜な夜な若い猫たちが交代で倉庫を見張った。しかし、何も起こらなかった。

「やはり、もう来ないかの……。」

 収穫祭の準備もあり、コンレーンは見張りを諦めることにした。

 しかし、ノーラ、ガッソン、チャマーの3人は納得できなかった。倉庫にはキースペルの魔法で鍵をかけ厳重にして、倉庫の回りには数名の猫が行ったり来たりしている。もし犯人が戻ってきたとしても、これだけの警備を目の当たりにしたら近づかなくなるだろう。

 そう思った3人は、四夜目の夜、勝手に見張ることを決めた。

 ————

 **深夜11時ごろ**、収穫祭の準備をしていた猫たちも家に帰り始めた。厳重にキースペルで倉庫にも鍵をかけた。

 ————

 **深夜0時ごろ**、チャマー、ガッソン、ノーラの3人が倉庫に集まってきた。

 まずは、チャマーが自慢の特性「樹ジャラシー」を使って倉庫の鍵を開けたあと、少しだけ扉を開けておいて、犯人を誘い込むようにした。そして、3人の役割を決めた。

 ガッソンは、倉庫から少し離れたところで出入り口を見張る。チャマーは、倉庫の奥から全体を見渡す。ノーラは、倉庫の横にある柱に隠れて、物音がしないか耳を済ませる。なにかあったら大声をだして助けを呼ぼう、と決めた。

 ————

 **深夜3時ごろ**、倉庫の中で擦るような音がした。

 チャマーもノーラもそれに気づいて、無くなった酒樽があったあたりに集中する。

 薄暗い中、**2つの影**が小さな明かりを灯し始めた。

「(来た……!)」

 ノーラが慎重に観察しようとした瞬間、チャマーが飛び出した。

「観念しろ! お前たちの悪事は、この麗しきチャマー・ボンスネー様の目を逃れられぬッ!……ええと、風よ、我が声に……うぐっ!」

 ジャラシーの先を宙に向け、魔法の力を込めるかのように言葉を紡ごうとしたが、興奮のあまり言葉がもつれ、肝心な部分でつまずいてしまった。

 チャマーの大声に、2つの影が驚き、動いた。

 一つの影は出口へ向かうが、駆けつけて出口を塞いでいた**ガッソンにぶつかり、そのまま倒れる。**

 もう一つの影がチャマーに向かって動き出し、何かを抜く音がかすかに鳴った。

 **「……刃物だ!」**

 ノーラは鋭い聴覚で察知し、とっさに詠唱中のチャマーへ飛び込んだ。

 二人は転がるようにして倒れ、次の瞬間、影の手にあった刃物——**よく見ると、それは金属ではなく、少しだけ尖った石**だった——が虚しく空を切った。

 ————

 チャマーの大声を聞きつけ、昨夜まで見張りをしていた若い猫が駆けつけた。

「何事だ!?」

 影は逃げることを諦め、光に照らされ、その正体が明らかになった。

 そこにいたのは、まだ10歳に満たないほどの男の子と女の子の小柄な猫二人だった。顔つきがとても似ており、兄妹なのかもしれない。みすぼらしい格好をしており、両手にはたくさんの擦り傷があり、裸足の足には痣がいくつも見える。

 男の子は背が少し高く、女の子を庇うように前に立っていた。

 その場の空気は張り詰め、皆、状況を把握するために、しばらく動けなかった。

「おまえたち……ここでなにをしていた!」

 駆けつけた若い猫が大声で問い詰める。

「……ブレスレットを……。」

「それは、これのこと?」

 ノーラが持っていた革製のブレスレットを見せると、女の子は大きく目を見開いた。

「それ、私の! 先生にもらったの!」

「ねぇ、君たち……本当にブレスレットを探しに来ただけなの?」

 ノーラは少し近寄って、双子と目線を合わせた。

 戸惑いながらも、ノーラの優しい瞳に引かれるように、小さく頷いた。

「……えっと。あのね……。」

「酒を盗んだろ!どうなんだ!」

 女の子の弱々しい声をかき消すように、また、若い猫が大声で問い詰める。

 大声を浴びせられて身を小さくした女の子を庇いながら、強張った声で男の子が言った。

「ルルーは悪くない!あいつらが盗めって。じゃないと……。」

 ガッソンが穏やかに問いかける。

「あいつらって…、何があったんだ?」

 チャマーはふっと肩をすくめて、冗談めかしく言う。

「俺たち、怒鳴ったりしないからさ。話してくれよ。」

 二人は少しの間沈黙した後、震える声で全てを語り始めた——。

 二人は双子の兄妹で、兄は**ラルーシル(ラルー)**、妹は**ルルーシア(ルルー)**と名乗った。

 双子は、中央都市**「チュールリ」**の外れにある貧民街**「ロテ」**の住人だった。

 彼らはさらに幼い仲間を抱え、飢えに耐えながら生活しているらしい。

「俺の弟分……リユンが……食べ物を盗んだんだ。」

 ラルーが顔を伏せ、低く言った。

「あいつは……、優しくしてくれるロテのばあさんの病気が……、きれいな食べ物で治ると思ったんだ。そして、たくさんの食べ物が入った木箱を……盗った……。でも、それであいつらが……。」

「あいつらって?」

 ノーラが問いかけると、ラルーは唇を噛んだ。

「その木箱、盗賊のものだったんだ。」

「……!」

 チャマーとガッソンが驚きの表情を見せる。

「あいつら怒ってリユンを連れてってしまって。俺たちに言ってきたのが……『ブルームアのマタタビ酒を持ってこい』だった。」

「マタタビ酒……?」

 ノーラの目が険しくなる。

「ブルームアのマタタビ酒は高く売れるって言ってた。祭りでたくさんの酒があるだろうから盗んでも誰も怒らないって。酒とリユンを交換してやるって……。」

「……だから、お前たちはマタタビ酒を盗んだのか。」

 ガッソンが低い声で言うと、ラルーは悔しそうに拳を握りしめた。

「リユンはまだ7歳だから、きっと怖がってる……。俺は、ただ……。」

 ルルーが震えながら、兄の服を握りしめる。

 大声を上げていた若い猫も、いまは静かに双子を見つめていた。

 ————

 遅れてやってきたコンレーンたちに、ノーラたちは勝手な見張りをしてしまったことを謝った。即座に事態を察して、叱るどころかノーラたちに頭を下げて礼をするコンレーンに、ノーラは双子のことを説明した————。それを聞いた猫たちは、目を伏せる者や小さくため息をつく者もいた。

「なんてことだ……。」

 コンレーンがゆっくりと口を開いた。

「彼らを罰するのではなく、どうにかして助ける方法を考えないと。」

「この兄妹のことも、連れ去られた弟分のことも、チュールリの警団に相談しよう。彼らが盗賊に脅されていたのなら、対処してくれるかもしれん。」

「それと、マタタビ酒の場所をはっきりさせんとな。」

 ノーラが視線を双子に向ける。

「お酒はどこにあるの?」

 ラルーは一瞬、迷うように視線を落としたが、小さく息を吸い、答えた。

「森の洞窟……。洞窟に隠してる……。」

 マタタビ酒の在処が分かり、一同は少し安心したようだった。ノーラはお酒のことよりも双子のことが気になりだしていた。

「これから、うちのお店に来なよ。オソノさんの "カズラ液" っていう消毒薬があって、擦り傷によく効くんだ。」

 酒樽の重さを知っているノーラは、幼い二人が持ち運ぶ大変さを想像した。運ぶときについたであろう手や足の傷も、きっと、リユンという弟分を助けたい一心で痛みに耐えたんだろう。

 ノーラは双子の傷を癒やしてあげたいと思った。

「では、この双子とマタタビ酒のことは夜が明けてから話そう。わるいのじゃが、それまで、三人で相手してもらえるかな?」

 コンレーンは集まった猫たちをなだめ、この場を決着させようと何やら話し込み始めた。

 その脇で、ノーラ、チャマー、ガッソンは、双子を十分に気にかけながらオソノのお店へと向かおうとした。

「華麗な魔法を見せたかったね」

 魔法を唱えそこねたチャマーがキザに振る舞う

「華麗なもんか。途中で呪文を噛んでいたじゃないか。ジャマー・ボンカミー」

「チャマー・ボンスネーだ!」

 チャマーとガッソンのいつもの掛け合いを見て、笑いながらルルーに話しかけた。

「これは君のだったよね?はい」

 ブレスレットを受け取ったルルーは顔中で笑いながら静かにお礼をした。

「ありがとう……」

「これから手と足の手当をしながら、そのブレスレットやロテの仲間たちのことお話ししてくれるかな?」

「うん……」

「お酒をとったのはいけないことだけど、無事に戻りそうで良かったよ」

「……ダメなの」

 ラルーの服を握ったままのルルーが小さく言った。

「だめ?……なにがダメなの?」

「今日、太陽が出るときに、盗賊がお酒を持っていっちゃう」
第1章 第5節「突風」
 朝日が山の端をかすめ、わずかに空が朱色に染まり始めた頃。ラルーが話してくれた。

「盗賊たちは、北の港に向かう途中で、酒をよこせって言ってた……。リユンを連れてくるって。でも、もし俺たちいなかったら、リユンは……」

 ルルーは兄の袖を握りしめたままうつむいていた。

「北の港か……」

 若い猫が低く呟いた。

 北の港——そこは荒くれ者の巣窟だった。交易の名目であらゆる違法な取り引きが行われる場所。奴隷商人、禁忌魔法徒、闇市が蔓延る地。もしリユンがそこへ連れていかれたら、二度と帰ってこられないかもしれない。

「……子どもを最優先にしよう」

 コンレーンが静かに決断した。

「万一のときは、酒樽は諦める。それよりも、子どもを守るのが先決じゃ」

 村の猫たちも、誰一人として異を唱えなかった。ただ静かに頷き、それぞれの決意を固める。

「いますぐ洞窟の様子を探ってきます」

 そう言ったのは、物隠れの魔法が得意な若い猫だった。彼を筆頭に数名の猫が偵察に向かうことになった。

「絶対に盗賊に見つからないように。接触もしないこと。もし酒樽があっても、触れんようにな」

 コンレーンが厳しい口調で言い渡すと、偵察隊は森の闇へと姿を消した。

 その間、ノーラたちは、ここよりも森に近い「またたびオソノ」へと移動することにした————。

 ————

「またたびオソノ」で、ラルーとルルーの手当てをしながら「まったく、無茶するねぇ。あの酒樽、あんたらにゃ重すぎだよ」とオソノは苦笑していた。

「ごめんなさい……」

 ルルーが小さな声で謝ると、オソノは「ほれ、足もみせてみな」と言いながら、消毒薬をたっぷりと塗った。

 やがて、洞窟から偵察組が戻ってきた。

「洞窟に……酒樽は無かった」

 報告を受けて、場が静まり返った。

「小さな男の子も、見当たらなかった」

 ラルーとルルーの顔が絶望に染まる。

「ただ……洞窟には、ろうそくの匂いがかすかに残っていたので、まだ遠くへは行っていないはずかと……それに……、まだ新しい残飯が捨てられていて、ざっと数十人分は……」

「じゃあ、まだリユンは近くにいるの?」

 ルルーが顔をあげる。

 だが、どうやってリユンを助けるのか。数十人の盗賊団に、村の猫たちが敵うはずがない。

「お願い……リユンを……」

 消毒中だったラルーとルルーは、涙をこぼしながら、誰あてとなく願った。

 ノーラは拳を握りしめ、何か言おうとした。そのとき、店の奥の棚をごそごそと探っていたオソノが、古びたジャラシーを手に取っていた。

「しかたないね~」

 オソノは少しだけ口をキュッと結んで、店の入り口へ向かう。

「口うるさいアイツと会うのは気が進まないが、なんとかしようかね」

「え?オソノさん?誰と……」

 声をかけようとしたノーラの声が届く前に、オソノは店を出ていた。

「皆はお店を出ないようにね」

 そう言い残したオソノの姿は、古びたジャラシーを振りかざした瞬間、突風とともに消え去った——。

 ————

 一時間後。

 突然、村に轟くような強い風が吹き荒れた。

「何だ……!?」

 ガッソンが驚き、窓を押さえる。ノーラも外に目を向けた。風はまるで意志を持つかのように北へ向かい、遠くの空が不気味に黒ずんでいく。

「……こんな音の風、聞いたことない……。でも、なにか優しい声がするな」

 ノーラは、風の中に隠れた心地よい声を捉えた気がした。

 ————

「(……年前のときみたいに、今回もあぶなかったケロ!)」

「(頭の中はお酒の作り方だけで、ジャラシーの使い方なんて忘れてたと思ってたケロよ!)」

「(あー、悪かったねー。ジャラシーの使い方ぐらい、一杯飲めば思い出せるのさ。いちいちうるさいねーあんたは。)」

 通りの奥から店のドアに近づいてくる会話が聞こえて、ノーラの目が輝いた。

「オソノさんが帰ってきた!」

 ノーラにつられてチャマーとガッソンも飛び出し、遅れて駆けつけたラルーとルルーは思わず声が出た。

「リユンッ!」

 そこには、小さな猫を抱えたオソノの姿があった。

 オソノの後ろには、ふわふわと浮かぶがま口カエル。

「オソノさん……!無事だったんだね……!」

「ほれ、この子を連れ帰ったよ」

 店に入ったオソノは、腕の中のリユンをそっと下ろした。

「この子は無事だよ。暴れてもらっちゃ困るから少し眠ってもらってるよ」

 ラルーとルルーの二人は、傷だらけの手でリユンの顔に優しく触れ、オソノに何度もお礼をしていた。

「ま、酒樽も、まぁだいたい戻ったさね」

「え!?どこに!?」

 しんみりした空気が苦手なチャマーは、大げさにキョロキョロと周囲を見回す。

 そして、がま口カエルが得意げに言った。

「大切に運んだケロ♪」

 その言葉とともに、口を大きく開けると、次々と酒樽が店の中へ吐き出されていく。

ドン、ドン、ドン……!

 酒樽は全部で11個。

 だが、そのうちの一つは樽の留め金が外れ、中身が空になっていた。

「……ごめんなさい」

 ルルーが振り絞るような声で謝った。

「運ぶときに落とて……それで、中のお酒が川にこぼれて……ごめんなさい……」

「ふむ、そりゃあ、きっと魚たちも喜んだろうねぇ」

 オソノはにっこりと笑ってこう言った。

「ま、ノーラが許してくれるなら、1個だけあるんだよ。とっておきが」

 オソノがお店の角の床板をぐっと踏むと、板が持ち上がってちょっとした隙間が見えた。そこから、小ぶりな酒樽を一つ取り出した。

「あんたが15歳になったとき、祝おうと思って作っておいた、特製のとっておきだよ。ちと小さいがね。これを収穫祭に使ってもいいかい?」

 ノーラは一瞬驚いたが、すぐに微笑んだ。

「オソノさん、ありがとう。もちろんだよ!」

「これで99樽そろったのぉ。収穫祭は無事に迎えられるな」

 コンレーンが安堵の表情を浮かべる。

「ところで……盗賊たちはどうなったんだ?」

 ガッソンが慎重に尋ねた。

 オソノは、手当てに使った道具を片付けながら、何気なく答えた。

「ちょっとお灸を据えてやったのさ。もうロテには近づかないだろうね」

 がま口カエルは不満げに口を挟む。

「なにが"ちょっと"だケロ? オソノは自分のしっぽと魔法のことを自覚してほしいケロ。あのときも……」

「はいはいはい、よくしゃべるカエルだねッ! (グッ)」

 オソノはすかさず、がま口カエルの口をつかんで「カズラ液」を流し込んだ。

「ののの!苦いケローーー!!!」

 がま口カエルは店の中をぴょんぴょんと飛び回り、ノーラたちは笑いに包まれる。

 こうして、無事にリユンを取り戻し、収穫祭の準備が整った。

 空の色と混じってぼやけた北の黒ずみだけが、ひっそりと、その余韻を残していた——。
第1章 第6節「魔法系」
 収穫祭は、ブルームアの村にとって一年で最も華やかで重要な行事。

 村の広場には色とりどりの花が飾られ、果物の甘い香りが風に乗って漂う。朝から村中の猫たちが忙しく動き回り、特に広場では、マタタビ酒の樽を並べる大人たちの掛け声が響いていた。

 前夜の儀では、長老コンレーンが豊穣への感謝を捧げ、厳かな祝詞を詠み上げた。灯されたランプが湖面に映り、村全体が淡い光に包まれる。子供たちは果物の皮を模した仮面をかぶり、舞い踊る。ノーラも、ガッソン、チャマー、マリーリンとともにその光景を眺め、心が高揚するのを感じていた。

「来年は俺たちもこの収穫祭と村を支える側になるんだな……」

 ガッソンがつぶやくと、マリーリンがにっこり微笑んだ。

「その前に、明日は由歌(ユカ)の儀式があるわよ。準備はちゃんとしておかないとね。」

 由歌とは、この村の猫たちが大人になるための大切な儀式だった。かつては、自分のこれからの生き方を詩にして歌い、祖先への誓いを立てるものだったが、時代とともに形を変え、今では皆の前で進むべき道を宣言する形式になった。

 多くの猫が魔法の系統を選び、それに基づいて職業や生き方を決めていく。魔法の系統を選ぶことは、すなわち自分の未来を決めることにほかならなかった。

 その言葉に、ノーラの心が少しざわつく。自分の進むべき「魔法系統」を宣言し、大人としての一歩を踏み出す場。ノーラには、まだ決められずにいた。

 収穫祭当日。昼の支度を終え、いよいよ儀式の時が近づいたころ、村の入り口に黒ずんだ旅装束をまとった猫が現れた。

「おぉ、ニパパ・ユンだ!」

 誰かの声を合図に、村人たちがざわめく。

 「ニパパ……?」

 ラルーが小さく呟いた。

 彼と妹のルルー、幼いリユンは、オソノの計らいでこの収穫祭を自由に楽しむことを許されていた。最初は戸惑っていたものの、村の猫たちが温かく迎え入れてくれたおかげで、彼らは次第に祭りの空気に溶け込んでいった。

 ガッソンが腕を組んでうなずいた。

「ああ、迷信の "カガク" を求めて旅をしてるらしい。たまに、故郷のこの村に返ってくるんだ。あの木のように大きなしっぽで、とても強い魔法を使いこなすって聞いたことがあるけど、穏やかで優しい方だぞ」

 その言葉を裏付けるように、ニパパ・ユンの姿は異彩を放っていた。一般的な魔法使いとは異なり、彼の装いには魔法道具らしきものはほとんど見当たらず、代わりに金属でできた奇妙な円盤や、細長い棒を腰にぶら下げていた。

 彼はゆっくりと広場の中央へ進み、親しげに近づいてくる村人たちを静かに見渡した。そして、わずかに口元を緩めると、懐かしそうに言った。

「変わらない村だ。ただいま。」

 その声は柔らかく、しかしどこか遠くを見ているようだった。

————

 昨夜、前夜の儀の頃。

 村に着いたばかりのニパパは、オソノと共に、しののめさんを訪ねていた。

「東部の遺跡でも "綻び" が進行していた」

 ニパパはそう語り、オソノに旅の途中でみた遺跡の変化について報告する。

「四つ目の遺跡もかい……。」

「七つすべてを調べる前に、限界がきちゃいそうだね……。ま、あたしも踏ん張ってみるさね」

 オソノがつぶやく。

 しののめさんは首をかしげながら「のめ♪」と短く呟いた。

 がま口カエルが代弁する。

「"綻び" を止める回生魔法の発葉までもう少し時間がかかるらしいケロ!」

 魔法は、遊保・集光・発葉という三つの段階を研究して体系化される

 遊保 … その魔法に適した魔遊を選び、身体の中に取り込む。

 集光 … 集めた魔遊で、流れを作り、型を想像する。型作りに成功して光が生まれた状態を魔力という。

 発葉 … 魔力が適合するジャラシーを見つけて、魔法を具現化する。

 新しい魔法を生み出すには、三つそれぞれで、気が遠くなるほどの幾通りもの組み合わせを試す必要がある。

「回生か...。あたしが知ってる使い手は、大昔のあの子だけさね。コツを聞いときゃよかったね、まったく」

 ニパパは、オソノのいった「大昔」について話し始めた。

「その大昔にあったとされる "科学" には、魔法と違う可能性がある...。俺はこれから————————」

————

 夕刻。儀式が始まり、いよいよ由歌のときがきた。

 ガッソンは**「地系」**の魔法を選んだ。幼いころから力強く地を踏みしめる感覚が好きだった彼は、石工の見習いになることを決意する。

「いつか、大きな儀式用の社を建てるんだ!」

 と目を輝かせるガッソンに、村人たちは温かな拍手を送った。

 次に、チャマーは**「大気系」**を選ぶ。

「商人の家業を継ぐには、風を読む力が必要だ。風が商機を運ぶってね!」

 彼らしい軽妙な言葉に、場が笑いに包まれた。

 マリーリンは**「処世系」**を選ぶ。

「母と一緒にレストランを切り盛りしながら、新しいデザートを作りたいの。」

 彼女の母が作る果物たっぷりのパイや焼き菓子は村でも評判で、未来の名店を期待する声があがった。

 そして、ノーラの番。

 ノーラは一歩前に出たものの、言葉が出なかった。

(僕には……どの系統が合うのか、わからない。)

 魔法を使いたい——でも、自分がどの道を歩むべきなのか、決めるにはまだ早すぎる気がした。

 それでも、ノーラには明確な目標があった。

「僕は……村を出て、両親を探します!」

 しばしの静寂の後、村人たちは静かに頷いた。ノーラの決意を、尊重するように。

 儀式が終わり、夜の広場で宴が続く頃、ノーラは広場から少し外れてひとり佇んでいた。

 「ノーラ。」

 低い声に振り返ると、そこにはニパパ・ユンがいた。

 「15歳になったお前に伝えておきたい。遥か東の遺跡近くで聞いた話だ。」

 ノーラは息をのむ。

 「十年前、見慣れない猫が『マリマリ草はないか』と訪ねてきたらしい。」

 マリマリ草。

 それは、西部の温暖な地帯で育つ薬草で、医者がよく処方するものであり、この地方では珍しくない。しかし、東部の乾燥した気候では育たないはずだった。

 「その猫は意識が朦朧としていて、自分の名前すら言えなかったらしいが……」

 ニパパは一瞬間を置き、ノーラの瞳をじっと見つめながら続けた。

 「球のような大きなしっぽを持つ、耳長猫だったという。」

 ノーラの心臓が高鳴った。

 ————記憶の奥底で、父の姿が浮かび上がる。

 長い耳。 丸いしっぽ。白衣をまとい、患者を診る真剣な横顔。

 父、ファストリドは村の医者だった。鋭敏な聴覚と、薬草や手技を用いて怪我や病を治す猫だった。

 「身体が本来持つ力を引き出すと、身体はみるみる元気になるんだよ。魔法も便利だけどね」

 そう言って、ノーラにも薬草のことを教えてくれた。

 「お父さん、どうして魔法で治さないの?」

 幼いノーラの問いに、父は苦笑しながら答えた。

 「大昔、怪我や病を治せる魔法があったらしいのだけど、今はもう…誰も知らないんだよ」——————。

 ————それは、行方不明の父、ファストリドではないか?

 「その猫、父さんかも!」

 「十年も前の話だ。 向かうなら、決して準備を怠るな。危険な土地だ。」

 「ニパパ様、ありがとう! 東の遺跡だね!」

 父の手がかりを掴み、直ぐに旅に出たいノーラだった。

 しかし、ニパパでも危険という東の地方。魔法系統すら選べられなかった自分が悔しくてしかたがない。

 「僕も……ちゃんと魔法を使えるようになりたい。」

 ————翌朝から、ノーラは高原で"朝花"を探し続けた。

 葉のわずかな震えにも意識を向けた。

 最初は、目と耳にばかり頼っていたノーラだが、徐々に、風を感じ、土を踏みしめ、高原を全身で捉えるようになりながら、毎日、夜明け前から高原を駆け巡った。

 そしてある朝——。

 夜明けとともに、朝花の蕾がふるりと震え、淡い光を帯びたように見えた。

 (あそこだ……!)

 息を止め、一瞬のうちにその花を摘み取る。手の中に宿る、微細な魔遊の流れ。

 「感じる……!」

 かすかに光る朝花を手の中で守りながら、急いでしののめさんの小屋へ向かう。

 しかし、しののめさんの姿はなかった。

 「しののめさーんッ! いないのーッ?」

 せっかく摘めた朝花を見てほしい。そう思ったノーラは、奥の研究室へと駆け込む。

 その瞬間——。

 研究所の中で集光が弾け、ノーラは"朝花"とともに光の奔流を浴びた。

————

 「……ケロ! 大丈夫ケロ! ノーラ!」

 がま口カエルの声で気がつき、目を開くと、床と光を失った朝花が見えた。

 「痛いところはないケロ? ちゃんと聞こえるケロ? 目は見えてるケロ? 名前は言えるケロ?」

 ゆっくり身を起こして「僕の名前はノーラ。 魔法が下手な15歳だよ。」と言って、回りを心配して飛び回っていたがま口カエルを落ち着かせた。

 「よかったケロぉ…… 実験中の魔力がノーラに当たってしまったケロぉ……」

 ノーラは「うんっ、大丈夫」と言いながら手を伸ばして、残念そうに朝花を拾い上げた。

 「朝花……、さっきまで手の中で光ってたんだけどな」

 そういって、朝花をがま口カエルに見せようとしたとき、朝花が失った光を取り戻し輝き始めた。

「え……、 朝花って、落ちたら枯れてしまうんじゃなかったの?」

 驚くノーラ。枯れていたはずの朝花が輝き出したことを、ノーラとがま口カエルは不思議そうにしばらく見つめていた。

 すると、しののめさんがノーラに声をかけた。

 「ノメ♪」

 しののめさんは、机に置いてある見慣れない材質のジャラシーと、ボロボロに破れ、擦り切れて、とても読めない古びた本を指さした。

 「ノーラ。しののめさんが、無事で良かった。元気なら、あのジャラシーを手にとってほしいと言っているケロ」

 ノーラは朝花と机の上のジャラシーを持ち替えた。たちまち朝花は光を失い、今度はジャラシーが穏やかに光り始めた。

 「ケロ! 発葉になってるケロよ! なんてことだケロ!」

 がま口カエルがいつもよりも興奮しているようだが、ノーラはジャラシーの穏やかな光をじっと見つめていた。

 「ノメ♪ ノメ♪」

 「ノーラ、ノーラ! しののめさんが持っているメモを唱えながら、あの破れた本に向かってジャラシーを振るケロ!」

 「……え、僕、詠唱なんてできるかな。……えっと、『時と恵みよ、我が声に————————』」

 ノーラが持つジャラシーから破れた本へ光が注がれる。擦り切れてまったく読めなくなっていた本の破れが塞がり、表紙にはうっすらと文字が浮かんできた。

 ——それは、回生魔法。万物を蘇らせる、遠い昔に途絶えたはずの魔法。
 
 

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